僧、鏡清に問う、学人啐す、請う師、啄せよ
清云く、還って活くることを得るや
僧云く、もし活せずんば、人に怪笑せられん
清云く、また是れ草裏の漢
碧巌録
啐とはソツ。鳥の卵の中で、今にも孵ろうとしている雛が、内側から殻を割らんとして叩く音のことです。この音が殻の中に反響してこもり、ソツソツと聞こえるので「ソツ」、漢字では啐と書きます。
これに対して啄(タク)は、雛の卵の殻をソツソツと叩く音を聞き、親鳥が殻の外側を嘴で叩いて割ってあげようとする音が「タクタク」と聞こえることを表現しています。
成長しようとしているものを、助けることを啐啄(ソッタク)と言います。
啐と啄のどちらが先に起るのかと言えば、これは啐側と啄側がお互いに満を持し、そして初めて成立する成長です。そしてこれが教育の本質であると、冒頭の詩は言っています。数値には表現出来ないような、ごくごく微妙なお互いのコンセンサスの中で、ソツと聞こえたから啄する、あるいはタクと聞こえたから啐するという、阿吽の呼吸のもとで成立しているもののことです。
私がボストンにいた時、ある日波多先生のシャドウイングで一緒に移動していた時に、車の中で波多先生がポツリと言いました。
「今から思い出してみて、やっぱり要所要所のタイミングで、自分を上に引き上げてくれた人がいたと思う。」
「でもそれは・・・波多先生が何かを持っていたからだと私は思いますが。」
「いやぁ、やっぱりそういう先生達は、頭が良かったよ。例えば僕が、3D Slicerを作ったのも、『画像診断で、2Dはよくあるよね、でも3Dはないよね。君なら3Dが出来るんじゃないかな』って言ってくれた先生がいて、それで3Dでやろうって思ったから」
「そうですか。でもそれは波多先生が・・・」
「いやいや」
「いやいやいやいやいやーやいや」
とかなんとか言いながら、私は啐啄の詩を思い出していました。
波多先生の才能を伸ばせなかったら、「もし活せずんば、人に怪笑せられん」と思った先生がいらした、そしてその方は、それを「師」あるいは教育というものの本質であると思っていらした、そういうことがあったのではないかと、私は思いました。
こんなことを考えたのは、私が今回のボストン滞在の初めに、波多先生に自分がこんなことをやりたいと話した時に、波多先生から
「そしたらシャドウイングします?」
「粂川先生の研究、トランスレーショナル・リサーチっていうキーワードで皆に説明したら、分かりやすいんとちゃいますか?」
「ここで見たこと、ブログに書いてみるのが良いと思います。」
と言って頂いたことがあります。
私は決して啐々と殻を叩いて、今にも孵らんとしていた学者ではないです。デザイン・コンセプト構築の体系化という目的だけを持って、アメリカに飛び込んで行っただけの学者でした。それを、波多先生がふんふんと理解し、どうすれば良いかを一瞬で考えて指南して下さいました。
この時、啐はせずとも先に啄が来た、だからすぐに啐を返さなければ、私は孵る機を逸するのではないかと思いました。こんな出会いがあること自体、とても恵まれていることは分かりました。
そして引っ張り上げて貰いながら(時には追いつかないこともありつつも)、トランスレーショナル・リサーチの方法論の研究を、ごく短期間の間に見せて頂きました。
今、帰国後のゴタゴタが多少落ち着き、改めて考えるに、これが私のボストン滞在の全てだと思います。
波多先生からの啄を逃さないようにした、その結果、色々なことが見えて来たということ、研究室のメンバーにも、インタビューに協力して頂いた方々にも、協力して頂いたこと。こういうことがあって、ボストンで有意義に過ごすことが出来ました。