今週は、日本から知り合いの家族がボストンに遊びに来ています。お母さんが私の勤務先の事務の方で、高校生の息子さんがアメリカ留学に興味があるということで、2人で大学が密集するボストンを見に来ました。私もクリスマス休暇を頂いているので、日中はあちこち一緒に見に行っています。
お母さんはこれまでにも数回海外旅行に行ったことがあるそうですが、今回の旅は今までよりも言葉や勝手が分からないらしく、
「海外ってこんなに何も分からないものだったっけ?パソコンも無いから何も調べられないし。」
と、かなり困惑されている様子でした。
今回、この二人はパソコンを持って来ていないだけではなく、旅行前に日本から申し込んだレンタル携帯電話もなかなか受け取れず、しばらくは電話も無いまますごしていました。iPhoneは持っているもののwifiが入る場所がなかなか見つからず、情報収集のために持っているのは旅行ガイドブックと和英辞書のみ。思うように情報が得られない不便さを痛感されていました。
かつてインターネットも携帯電話もスマートフォンも無かった頃は、日常的に知りたいことをすぐに知ることは出来ませんでした。仮にいつも辞書を持ち歩いていたとしても。辞書は それが電子辞書だったとしても、得られる情報の量・形式にある程度の制限があります。所謂「辞書的な」事象の定義であるか、または辞典的な説明であるか。それらが文字または図、写真で示されています。事象をきちんと解説するのが辞書の役割ですから、仕方のないことですが。
その点インターネット上の情報は、信頼性の面では辞書には劣るものの、定義から解説、そして口コミまで、表示形式は文字、写真、イラスト、CG、動画、音声などなど多種多様になんでもあります。そしてこれらは、辞書に印刷された情報のようにハードと一体化した固定のものではなく、次々更新される流動的なものです。
私個人のことを考えても、いつの間にか「欲しい情報を直ぐに取得する」ということが当たり前になっています。これがいつ頃からかと言えば、auの携帯電話からもHTMLのサイトが閲覧出来るようになった頃からですから、ここ4−5年ほどでしょうか。それまでは、私が利用しているauの携帯電話はからは「ezweb」というau独自の閉じたネットにしか接続出来ませんでした。取得出来る情報もezweb向けに作られたものだけだったため、さほど便利なものでもなく、大して利用しませんでした。
これがある時気付いたら、普通にHTMLのサイトも見られるようになっていて、この辺りからいつでもどこでもどんどんネットに接続するようになりました。わざわざパソコンの前に座る必要もなくなったからです。今はちょっと知りたいことがあればネットで検索します。本当にちょっとした疑問でも、すかさずその場で調べることが当たり前になっています。
こうなって来ると「情報取得はネットに頼る」というのが当たり前になってしまって、それまでは自分で頑張って収集していた情報さえネットで調べれば良いや・・・となってしまいました。
例えば、知らない道を歩く時。以前なら五感をフルに使って色々な情報を収集し、空間認知をしたり状況把握をしたり、今後のために道を記憶したりしていたものです。が、今は
「迷ったら、ネットで地図かナビ見れば良いや・・・」
と全く意識を研ぎすませていません。他にも同様なことは沢山あります。
しかもネットでその都度情報を検索出来るということに頼り始めると、情報を記憶することもしなくなって行きます。例えば知り合った人のプロフィール。これさえもごく最近では「フェイスブックでその都度見れば良いか」とのんびり構えている自分に気付き、我ながら少々驚愕しました。
もしもこの状態で、ネットに一切つながらない環境に行ったら、私もきっと
「こんなに分からないことばかりなのか・・・」
と驚くでしょう。
誰かとの連絡についても似たようなことが起っています。いつでもどこでも簡単に、EメールやSNS、スカイプなどであっという間に相手と連絡が取れるため、これが出来なくなるとなんだかものすごく不便のように感じてしまいます。今更ですが。

《つづく》
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